蝋燭

 小学校低学年くらいのころ、僕は寝られなくてよく泣いていた。「死ぬのがこわい」と、母を起こして困らせたのを覚えている。意識を失って眠る状態が、死を連想させたのかもしれない。
 子供の頃の僕は、「人が死ぬ」ということが受け入れられなかった。死んだらお寿司も食べられないし、ポケモンもできない。死んだら全て終わりなのに、なんで大人は気にせず生きていられるのだろう。そう考えていた。
 けれどいつからか、目の前にある人間関係や受験勉強なんかに急かされて生きるうちにそんなことを考えなくなった。「死ぬこと」について納得のいく答えが得られたわけではなかったけれど、何となくそういうもんだと受け入れるようになっていた。
 
 父親が癌だと知らされた時、全く実感が湧かなかった。大らかでとても丈夫な父親だったから、母からのLINEを見たときは、とても驚きはしたものの、それでもなんとかなるんじゃないかと心のどこかでは感じていた。しかし、帰省を重ね、抗がん剤に苦しむ姿や手術の直前に怯える姿を見るにつれ、この父の老い先は長くはないのだと、認識を改めることを強いられた。手術のすぐ後、全身麻酔をかけられた父の土気色の顔を忘れることができない。
 抗がん剤治療の結果、幸い、縮小した患部を摘出することができたため、再発の危険性があるとは言え、父は今も元気に過ごしている。実家も以前の穏やかな雰囲気を取り戻した。しかしこの出来事をきっかけに僕は、周りの人たちに迫る死を、そして自分自身に迫る死を、強く意識させられるようになった。幼少期の恐怖が蘇ったようである。
 
 人は順番に死んでいく。そんなこと、当然のように頭では分かっていたし、受け入れているつもりだった。しかし、それは実感とはかけ離れたものだったのだ。いつか、若くして死んだロックスター達に憧れて、自分も長生きしたくはないと言った僕は、本当に浅はかだったと思う。
 
 友達とお酒を飲んでいても、絵を描いていても、何をしていても、この瞬間がいつかは終わることへの不安が心の片隅にあり、それが時折ささいなことがきっかけとなって、新たな不安を巻き込みながら雪だるま式に増大する。ちょっとした体調の変化を訝しんだり、ふとした瞬間にはかなく感じたりしてしまう。この恐怖にはまだしばらく折り合いをつけられそうになく、少し不安定な気持ちが続いている。
 特に、無為に時間を過ごせないという焦燥感は強い。父親だけでなく、母や祖父母も目に見えて老いてきている。近しい人の命の蝋燭が確かに縮んでいく中、そして、自らも死の可能性を常に孕みながら、僕はどう生きれば良いのだろう。

二重写し

 実家に眠っていたCONTAX T2を京都に持ってきて、何回か出かけるときに持ち歩いていた。それを、うちの近くにある写真屋へこないだ初めて現像に出した。
 
 
 1時間ほど時間を潰して取りにいくと、かぶり撮影になってます、と言われた。確認すると確かに、1枚の写真の中に複数の写真が重なって写っている。カメラになんらかの不具合があってそうなっているとのことだ。
 よくよく観察すると、1枚の写真の中に、3枚分の写真が断片的に写っているようだった。おそらく、フィルムの巻き取りが1回に半枚分程しかできていないのだろう。結果として1枚の写真に、フィルムの前の写真と後ろの写真が左右に半分ずつ写っているのだ。
 
 
 現像代がそこそこ高かったから(店員の手間は変わらないだろうに高画素にしたら、150円高く取られて1000円もした)、お金を無駄にしただろうかと少し凹んでいたが、家に帰って改めてデータを確認してみたら、その写真が案外良いのではないかと思い始めた。
 1枚1枚で成立させようと撮っていた写真だから、それが3枚分も重なれば、一見するとカオスな写真である。ただ、僕が写真を撮った当事者だからというのはあるだろうが、そのカオスの中にも一定の脈絡というか、時間の流れが感じられるのである。実際、3枚の写真は時を前後して取られた写真であり、それらの要素がうまい具合に溶け込んで、脳の中に曖昧に格納された沖縄旅行の記憶が具現されているようにさえ思われた。
 
 
 カオスな絵画、カオスな音楽、カオスな文章。カオスなものが、作品として前に現れたとき、僕たちは途端に「分からない」と言って放り出すことが多い。しかし、人間の感受性とは元来カオスそのものであるし、それがむしろピュアな形なのだろうと思う。
 高画質カメラで撮影された写真は、写った花びらの枚数まで数えられるほど精細に現実空間を切り取ることができるが、それはその時の感覚とはかけ離れている。我々はそこにあった花びらの枚数を覚えていないし、そもそも五感のうちの視覚だけを切り取って受け取ることができない。我々が普段、この世界を経験する時は、五感のそれぞれがイニシアチブを奪い合いながら、境目なく混ざり合った、感覚のかたまりになっている。夢でみるものがイメージとして近いが、起きているときに経験するものも、鮮明さに差はあれ、ものとしては同じだろうと考えている。
 重なって写ったこの写真は、他人にはただの混沌かもしれないが、感覚の当事者である僕にはすんなりと受け入れられるものだった。
 
 
 意図せず起こったことだったが、こう言った技法を「二重写し」というらしい。
 現像された写真を見た瞬間、頭の中にシューゲイザーの音楽が浮かんだ。My Bloody Valentinelovelessの表紙に似ていたからだろうか。でも、カオスという点で、イメージは共通している。
 シューゲイザーは疲れている時には、たまらなく心地よい。日常で僕たちは理性的に生きること、遊びと仕事を、友達と利害関係者を、区別して生きることが求められている。それに疲れた時、カオスをカオスのまま、区別することに労力を割かずに受け容れることは心地よく感じるものだ。