二重写し

 実家に眠っていたCONTAX T2を京都に持ってきて、何回か出かけるときに持ち歩いていた。それを、うちの近くにある写真屋へこないだ初めて現像に出した。
 
 
 1時間ほど時間を潰して取りにいくと、かぶり撮影になってます、と言われた。確認すると確かに、1枚の写真の中に複数の写真が重なって写っている。カメラになんらかの不具合があってそうなっているとのことだ。
 よくよく観察すると、1枚の写真の中に、3枚分の写真が断片的に写っているようだった。おそらく、フィルムの巻き取りが1回に半枚分程しかできていないのだろう。結果として1枚の写真に、フィルムの前の写真と後ろの写真が左右に半分ずつ写っているのだ。
 
 
 現像代がそこそこ高かったから(店員の手間は変わらないだろうに高画素にしたら、150円高く取られて1000円もした)、お金を無駄にしただろうかと少し凹んでいたが、家に帰って改めてデータを確認してみたら、その写真が案外良いのではないかと思い始めた。
 1枚1枚で成立させようと撮っていた写真だから、それが3枚分も重なれば、一見するとカオスな写真である。ただ、僕が写真を撮った当事者だからというのはあるだろうが、そのカオスの中にも一定の脈絡というか、時間の流れが感じられるのである。実際、3枚の写真は時を前後して取られた写真であり、それらの要素がうまい具合に溶け込んで、脳の中に曖昧に格納された沖縄旅行の記憶が具現されているようにさえ思われた。
 
 
 カオスな絵画、カオスな音楽、カオスな文章。カオスなものが、作品として前に現れたとき、僕たちは途端に「分からない」と言って放り出すことが多い。しかし、人間の感受性とは元来カオスそのものであるし、それがむしろピュアな形なのだろうと思う。
 高画質カメラで撮影された写真は、写った花びらの枚数まで数えられるほど精細に現実空間を切り取ることができるが、それはその時の感覚とはかけ離れている。我々はそこにあった花びらの枚数を覚えていないし、そもそも五感のうちの視覚だけを切り取って受け取ることができない。我々が普段、この世界を経験する時は、五感のそれぞれがイニシアチブを奪い合いながら、境目なく混ざり合った、感覚のかたまりになっている。夢でみるものがイメージとして近いが、起きているときに経験するものも、鮮明さに差はあれ、ものとしては同じだろうと考えている。
 重なって写ったこの写真は、他人にはただの混沌かもしれないが、感覚の当事者である僕にはすんなりと受け入れられるものだった。
 
 
 意図せず起こったことだったが、こう言った技法を「二重写し」というらしい。
 現像された写真を見た瞬間、頭の中にシューゲイザーの音楽が浮かんだ。My Bloody Valentinelovelessの表紙に似ていたからだろうか。でも、カオスという点で、イメージは共通している。
 シューゲイザーは疲れている時には、たまらなく心地よい。日常で僕たちは理性的に生きること、遊びと仕事を、友達と利害関係者を、区別して生きることが求められている。それに疲れた時、カオスをカオスのまま、区別することに労力を割かずに受け容れることは心地よく感じるものだ。